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やった~2,020年東京オリンピック決定

25/9/8

 

 

 

最終ランナーだった坂井義則氏も折に触れてマスコミに登場なさいますね

             二個製作されて一個は川口市青木公園に設置されている

 

今朝の朝刊にも掲載されていなかったが、
テレビのお守をしている旦那が東京に決まったぞと知らせてくれた。

 

静かに嬉しい!
これからじわじわと嬉しさが増すことだろう!

 

思い起こせば、前回49年前(昭和39年、1,960年)の東京オリンピックは

東京にいながら何となくテレビで見て居たくらいで熱中してはいなかった。
東京に来てから4年経っていたが生活にゆとりがなかったのだ。
甲州街道傍の初台に越して来たらあちこち道路工事が行われていたがおリンピックに

むけての工事だったのだ。


マラソンも甲州街道で行われるのに沿道に見にも行かなかった。

一番印象的だったのは私はなぜかテレビを持っていたが、

同僚夫妻はテレビがなかったので私の部屋に観戦に来た。


その時見たのが棒高跳び決勝戦であった。
単調なのにこんなにエキサイトする競技は見たことがありません。
米・独の白人選手でしたが、その孤高な横顔がギリシャ彫刻の様に綺麗だった事が

印象に残っています。

東京オリンピックでフレッド・ハンセン(米)はヴォルフガング・ラインハルト(独)との5時間半にもわたる激闘を演じ、現在でも棒高跳有数の名勝負として語り継がれている。

 

オリンピックにどんな形であれ参加する事はその人生にとって誇り高いものを

残すでしょう。

護国活動で日夜活躍しておられる埼玉県川口市の宮内貞守氏は鋳物製作に必要な木型を

製作なさっていますが、東京オリンピックの聖火台の木型を作成した誇りを抱いて

人生を歩んで来られた様です。
名刺にも聖火台をすり込み初対面では必ずそのお話をなさいます。
これからもますます語られることでしょう。

 

2020年の東京オリンピックには元気で参加したいと思います。
どんなに高価でも開会式、閉会式には参列します。競技も出来るだけ観戦します。
さぁ生きる希望がわいてきたぞ~

 

日本人の品格を世界に示す大会にしましょう。

 

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私は根性無し

25/6/13 (木)梅雨空

 


二輪目、良く見れば雄花ばかりだ

傷を取って3片ほどに切る

そう言えば系列の社長の長野の空き家に梅を採りに行こうと社長と話して居る

昨夜        今朝       今朝まぜまぜ    今夜

 


梅の話から父の話まで

 

先日「ため口」が欲しいと言うので2㎏あげた。
後2㎏ほど残っていたのであれこれ思案したが結局梅酵素を仕込んだ。


梅酵素は一昨年作ったんだけど私は飲まずにほとんど娘が美味しいと言って飲んだ。
なぜって幾ら我が手と言えども毎日私の常在菌を添加する為にまぜまぜするのが
気持ち悪かった。


しかし考えて見れば料理やぬか床は素手でやるし、あたりまえの事ではないかと思い至り
今年は吹っ切れた、って小難しいね。

 

「ため口」と言えば梅と一緒に梅酒と梅ジャムも持たせたわ。
なんてお人好しなんだお前は!

「ため口」上手なんだなすりすりするのが、ついほだされて許してしまう。


私は怒りや恨みを持続する事が出来ない性分だ。
それで父も怒っていたな。
『なんだお前は、、根性が無いのか』と怒っていた。

 

あれは中学卒業の時のことだった。
卒業式でクラスから1名選ばれる名誉ある賞があった。
それは最期の試験で一番の成績を取った生徒が表彰される誇らしい賞だった。

私は中学から高校入学試験までが学業成績のピークだった。

 

中学まではたいして勉強しなくてもほどほどの成績が取れたのでコツコツ勉強する癖が

ついていなかったのだ、
特に理数系は絶望的だった、お陰でいまだに利息の計算も出来ないよ。
よくぞ卒業出来たものだ、奇跡!

 

日頃から成績には自信があったし、クラスの皆もこの賞は絶対に○○さんよねと

囃子たてていたし、私も自負していたので否定する事は無く胸では「絶対私のものだ」と思っていた。
両親にも絶対に取ると宣言していた。

 

それは卒業式で名前を呼ばれて始めて判る仕掛けだった。
ところが私は名を呼ばれなかった。
周りの皆が『えっ、どうしたの』と言う反応で私を注目した。
私は選ばれなかった事より周りの目にどう反応して良いかに狼狽しショックのあまり

いたたまれなくて、式場を飛び出した。
そして式の後の中学最期の楽しみだった茶話会にも出なかった。
人生初めての挫折経験にどう対応して良いか判らなかったのだ。

 

帰宅して日頃から父とは会話はなかったが言い付けた。
「父ちゃん、普段からわたいの方がいつもよか成績ば取っとったとに中島先生が依怙贔屓して
他の人ば選んだ」
父は怒った、もの凄く怒った、先生のところに文句ば言いに行くとまで言って怒った。

 

私は少し後悔した。

そして冷静になったらすぐに先生を恨む事は無くなった。
後に先生は『日頃の成績は君が良かったが最期の一発試験では僅差で負けたのだ』と

言われた。
もうその頃は許していたのだ。

 

卒業後クラスメイトと一緒に先生宅に遊びに行こうと誘われたので行った。
それを知った父は烈火の如く怒って


『お前には根性と言う物がないのか、俺は自分の娘が依怙贔屓で落とされて絶対にあいつだけは許さんと思って道で会っても挨拶もせんとぞ』と怒った。

先生宅は同じ町内(部落と言っていた)だったので道ですれ違う事があった。

 

父を敵に回すと怖かったな。
そこ行くと私は本当に根性無しです。
親子でどうしてこうも違うのかな。
そう言えば顔も似てなかったな。
私と違って体格も良く役者のようなくっきりとした顔をしていたな。

 

父ちゃん!今更だけど可愛げの無い娘でごめんなさいね。

 

過去記事

梅酵素

炊飯は科学だ

25/5/31 (金)晴れ 暑い マイバースデイ

 

おむすびの旨さは世界中で認められている。

 

今日は私の誕生日
76歳!!はるけくも遠く今日まで来たもんだ!

私は人類として一番幸せな世代に生まれ来て育ったとおもう。

 

縄文時代から続く生活をこの身で経験出来た希有な世代である。
まず当然の如くご飯やおかずは有史以来続く竈や薪や炭で煮炊きした。
それからガスや電気釜が登場する時代もこの身で経験した。

 

我が家や娘宅ではご飯は電気釜ではなくて鍋で炊いているが、

若い人はご飯は電気釜でしか炊けないと思っている向きもある様だ。
我が家のご飯は常に同じ状態で炊きあがるがそれは科学であると思う。


小学か中学性の頃先生から聞いた話がいまだ忘れられない。

ドイツに留学した男性が下宿のおばさんにご飯を炊いて下さいとお願いした。
何度か繰り返し試行した結果『これです、これが日本のご飯です』と
その後毎回同じ状態のご飯が出来あがるのでなぜと問うたら、
毎回水加減炊き加減をメモしておいたのでこれだと言われた事を繰り返していますと、


ここで先生はドイツが合理的科学的で日本は非科学的だと言う比較をなされた。

 

その頃日本では母親から教えて貰った水加減は手の平を米面につけて

腕のくるぶしまでと言っていました。
炊き方も厳密な方程式は無くて「始めちょろちょろ中ぱっぱ 赤子泣くとも蓋とるな」と言っていました。
なんせ、燃料は薪ですから毎回ご飯の出来あがりは焦げたり、柔らかすぎたり堅かったりとまちまちでした。それが当たり前だと思っていました。


高校に入ってから料理の時間に始めて合理的な水加減を習いました、米の二割増と、
しかし炊き方はやはり勘でした。

その頃タイマーなんて便利な物はなかった。

 

今我が家では毎回同じ状態のご飯が出来あがりますが、娘宅のガス台は優れものです。
炊飯のボタンを押しておくと勝手に強火弱火蒸しと進行するそうです。

 

我が家の鍋で炊くご飯
①水加減は米と同量(30分位前に洗う)
②中火で炊く
③吹いたら弱火にして15分
④10分蒸らす
美味しいご飯の出来あがり。

 

誤嚥性肺炎

25/5/17 (金)晴れ 富士山朝見える

 

今日は珍しく弁当持参しました、皆の衆驚いていた。

「ため口」に芹ご飯にして芹をちゃんと食べているよと知らせるためです。

シラスは傷みやすいのでホイルで包んで食べる直前に混ぜます。

 

*芹ご飯

*キャベツ、椎茸、豚バラ肉、新玉葱の炒め(昨夜の残り物)

*切り昆布と豚バラの炒め 唐辛子きかせる(昨夜の残り物)

*自家製胡瓜のぬか漬け、自家製紅生姜


今週はじめに皮膚呼吸困難さんが入院なさった。
少し前から発熱が続き毎日往診してくれる主治医が誤嚥性肺炎のきざしがあるので入院をすすめていたが家族が決断しなかったが、高熱が出たのでやっと決心なさった。

 

ところで誤嚥性肺炎について昨日の研修で講師が言った言葉を思い出した。
講師がデンマークに研修旅行に行った折、日本では誤嚥性肺炎で亡くなる老人が多いと

話したら、先方驚いていたそうだ。

 

デンマークでは誤嚥性肺炎はほとんどないと言う。
なぜならデンマークでは子供の時から堅い黒パンを必死で食べ続けているので誤嚥は

しないそうだ。

 

日本では年取ると歯が無いせいもあるがまず柔らか食にするよね。
重湯にお粥にとろみ食が常識だけどまあ歯がなくなってからでは遅いが、

人間、堅い物を奥歯を使って良く咀嚼する事は大事ですね。

 

現在は子供の時から柔らかい食べ物を食べさせているけど、

私事ですが、私の子供の頃はそりゃ堅い物を食べ続けましたね。


まずおやつですが父はどさっとまとめ買いする人でしたが、いつも常備していたのが

「いりこ」でした。
学校から帰ると「いりこ」の大袋(20㎏位かな)に手を突っ込んでひとつかみポケットに入れて遊びに飛び出しました。
「いりこ」と言っても当時のは堅い奴でしたね。

 

それから乾燥空豆の煎ったのが豊富に与えられましたが、現在の空豆とは大違い

そりゃ歯が欠けるくらい堅かったですよ。

 

そうそう海産物も豊富でした、何しろ有明海を遠くに眺め山の向こうには玄海灘を控え

山海の珍味が安価で豊富にありましたからね。 

 

有明海の潟に住んで居る海茸、

右は乾燥した海茸、するめのようにあぶって食べる、これが旨いんだ


他に「するめ」に「海茸」や「わらすぼ」の乾燥したのや薩摩芋の蒸かしたのとか、
貧しかったけど今の暮らしよりは自然豊かなおやつを毎日食べていましたね。

海茸は昔は有明海で豊富に取れていましたが近年減少しているようです。
亡き母が考察していました。
流れ込む川(たとえば六角川)上流域の田圃に戦後農薬を蒔くようになってから

「わらすぼ」や「むつごろう」等潟に住む生物がいなくなったそうです。

 

両親はバイクで有明海まで釣りに行って居ました。
父が糖尿病で目が不自由になってからは細い母が大きな父を後に乗せて行って居たよう

です。
父が亡くなってからも一人で70ccのバイクに跨って有明海まで釣りに行って居ました。
車はなかったけど好奇心旺盛でしたから自動二輪でどこへでも行って居ました。
活発な母でした。


ほうじゃ(佐賀弁)

 

安いので良く食べさせられたのが「ほーじゃ」と言う小さな巻き貝でした。
食べるの面倒でしたが飽きもせずに食べ続けていました。
しっぽを5円玉の穴に入れて折り、入り口から身をチュッと吸い出します。
あれは標準語で何と言う貝でしょうかね。
ネットで検索したらウミニナと言うのが当たっている様だけど、

「ほうじゃ」と言う地方は佐賀だけなんだろうか。

 

茹で蟹もなにげに食べていたし、しゃっぱ(シャコ)を茹でてむさぼり喰っていました。

 

鶏なんか庭駆け回っていましたから堅くて歯が丈夫でなければとても食べられません、
東京に来て食べた養鶏肉がさぱさぱしてまずいなと認識してからいまだに好きじゃ

ありません。

 

私がこうして骨密度も高く丈夫なのは幼児の頃から身体に良いものを食べ続けていた

お陰です。
あぁ食べ物豊富な土地、時代に生まれ育って良かった!!
         

 

 

東京で「山本作兵衛展」後世に残した炭鉱の記憶

25/4/25 (木)腫れ 暖かい

 

 

山本作兵衛(本橋成一撮影)


今日の産経新聞に又も山本作兵衛さんの話題が掲載された。

 

私は炭坑街育ちなのでこの山本作兵衛さんの絵画の事は昭和48年3月には承知していた。


「筑豊炭坑絵巻」発売の新聞の小さな広告を見て当時としては大枚4,500円もはたいて

郵便で注文したのだ。
48年1月20日に第一刷が発行され3月20日に第二刷が発行されたのを注文したのだ。

 

我が街の炭坑は大手だったので割と近代化して居たと思うが炭坑で働く坑員はあちこちの炭坑を流れ歩いていたので筑豊の炭坑や小山(零細炭坑)の話も良く聞いた。

戦前は我が杵島炭坑でも男性坑員が戦争に取られて人出不足になり女性も働いていたと

身近で聞いた。


もう今となっては私自身にとっても夢まぼろしの如き薄れゆく記憶である。
石炭が日本の屋台骨を背負っていた事も誰の記憶にもないだろう。

そんなわけで今回この展覧会を同好の士と観に行こうと思う。

 

過去記事も是非ご覧ください。
筑豊炭鉱絵巻

 

東京で「山本作兵衛展」後世に残した炭鉱の記憶

 

国連教育科学文化機関ユネスコ)の世界記憶遺産に日本で初めて登録され、

一躍注目を集めた炭鉱絵師の山本作兵衛(1892~1984年)。
作兵衛の初の個展が東京で開かれ、炭鉱絵の原画約60点が一堂に公開されている。

(渋沢和彦)

 

 

 

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