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「不幸なるは近隣に国あり」

25/2/12 (火)晴れ

 

yohkanさんからお借りしました。


恥ずかしながら今日初めて脱亜論の全文を読みました。
支那朝鮮についての記述はまさに現代の日本を取り巻く危機を予言しています。
皆様これをよく読んで支那朝鮮と対しましょう。
これら2国はこの社説が書かれた100年以上前から変わらないのです。

 



      脱亜論(全文)

 

明治18年(1885年)3月16日

福沢諭吉が「時事新報」紙上に掲載した社説を「脱亜論」と呼んでいる。


世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、至る處、草も気も此風に靡かざるはなし。


蓋し西洋の人物、古今に大に異なるに非ずと雖ども、其擧動の古に遅鈍にして今に活發なるは、唯交通の利器を利用して勢に乗ずるが故のみ。

 

故に方今当用に國するものゝ為に謀るに、此文明の東漸の勢に激して之を防ぎ了る可きの覺悟あれば則ち可なりと雖ども、苟も世界中の現状を視察して事實に不可ならんを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦樂を與にするの外ある可らざるなり。

 

文明は猶麻疹の流行の如し。

目下東京の麻疹は西國長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。


此時に當り此流行病の害を惡て此れを防がんとするも、果して其手段ある可きや。


我輩斷じて其術なきを證す。

有害一遍の流行病にても尚且其勢には激す可らず。


況や利害相伴ふて常に利益多き文明に於てをや。


當に之を防がざるのみならず、力めて其蔓延を助け、國民をして早く其氣風に浴せしむるは智者の事なる可し。

 

西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開國を發端として、國民漸く其採る可きを知り、漸次に活發の氣風を催ふしたれども、進歩の道に横はるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。


政府を保存せん歟、文明は決して入る可らず。

如何となれば近時の文明は日本の舊套と兩立す可らずして、舊套を脱すれば同時に政府も亦廢滅す可ければなり。

然ば則ち文明を防て其侵入を止めん歟、日本國は獨立す可らず。

如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の獨睡を許さゞればなり。

 

是に於てか我日本の士人は國を重しとし政府を輕しとするの大義に基き、又幸に帝室の神聖尊嚴に依頼して、斷じて舊政府を倒して新政府を立て、國中朝野の別なく一切萬事西洋近時の文明を採り、獨り日本の舊套を脱したるのみならず、亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亞の二字にあるのみなり。


我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども、其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。

 

然るに爰に不幸なるは近隣に國あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云ふ。

 

此二國の人民も古來亞細亞流の政教風俗に養はるゝこと、我日本國に異ならずと雖ども、其人種の由來を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺傳教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三國三國相對し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二國の者共は一身に就き又一國に關して改進の道を知らず。

 

交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、
其古風舊慣に變々するの情は百千年の古に異ならず、
此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、學校の教旨は仁義禮智と稱し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其實際に於ては眞理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を拂ふて殘刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し。

 

我輩を以て此二國を視れば今の文明東漸の風潮に際し、迚も其獨立を維持するの道ある可らず。

 

幸にして其の國中に志士の出現して、先づ國事開進の手始めとして、大に其政府を改革すること我維新の如き大擧を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若しも然らざるに於ては、今より數年を出でずして亡國と爲り、其國土は世界文明諸國の分割に歸す可きこと一點の疑あることなし

 

如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓兩國は其傳染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞するものなればなり。

 

輔車唇歯とは隣國相助くるの喩なれども、
今の支那朝鮮は我日本のために一毫の援助と爲らざるのみならず、
西洋文明人の眼を以てすれば、
三國の地利相接するが爲に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの價を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。

 

例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の國かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科學の何ものたるを知らざれば、西洋の學者は日本も亦陰陽五行の國かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、

 

朝鮮國に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば、枚擧に遑あらず。

 

之を喩へば比隣軒を竝べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然も殘忍無情なるときは、
稀に其町村内の一家人が正當の人事に注意するも、他の醜に掩はれて湮没するものに異ならず。

 

其影響の事實に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは實に少々ならず、

我日本國の一大不幸と云ふ可し。

 

左れば、今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、
寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、
正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。

 

惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。
我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり。

 



『時事新報』1885(明治18)年3月16


参考現代語訳
 
世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、到るところ、草も木もこの風になびかないことはない。


西洋の人物は古代と現在に大した違いはないのだが、その活動が古代は遅鈍、今は活発なのは、ただ交通の機関を利用し、勢いに乗じるがためである。

 

ゆえに最近、東洋の我が国民のために考えると、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよい。

 

しかし、いやしくも世界中の現状を観察し、事実上それが不可能なことを知る者は、世間と共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのである。

文明は、いまだ麻疹(はしか)の流行のようなものだ。

目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。


この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするにしても、果してその手段はあるだろうか?
筆者は断じて、その手段はないものとする。

 

有害一辺倒の流行病も、その勢いにはなお抵抗できない。
いわんや利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらである。
これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませることが智者の課題である。
 
近代西洋文明がわが日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。
国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、
進歩の道に横たわる時代遅れの幕府というものがあり、これはいかんともできなかった。 

 

幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。
なぜかというと、近代の文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。


だからといって、文明をふせいてその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。

なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。


ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、
また、さいわいに神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立てた。

 

政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。
アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。
 
わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習慣を脱し、西洋の文明に移っている。

 

しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。
 
この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないのである。

だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、
日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである。

 

この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。


交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすことにならず、
その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。

 

現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。

 

そればかりか、道徳さえ地面を這うように残酷破廉恥を極め、なおふんぞり返って反省の念など持たない者のようだ。

 

筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。

われらの明治維新のように、幸い国の中に志士が現れ、進歩の手始めとして政府の大改革を企て、
政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。

 

もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。

 

なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・韓国の両国は伝染の自然法則に背き、
無理にこれを避けようとして室内に引きこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。

 

「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。

 

のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、
支那・韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。


例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制であり、法律に従うことがなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。

 

支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。


支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。

 

事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。
喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、
たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。


その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の大不幸というべきである。
 
そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。


むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別扱いするに及ばず、
まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。


悪友と親しく交わる者も、また悪名をまぬかれない。
筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。

 

 

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